連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使で、指導者のムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、1943年7月24日、5年ぶりにヴェネツィアで行われたファシズム大評議会において、連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。「統帥権の国王への返還」の動議に対し、ミュンヘン会談や三国軍事同盟調印に参加したひとりで、ムッソリーニの女婿でもあったガレアッツォ・チアーノ外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、過半数の賛成を得て成立した[8]。ムッソリーニは翌7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨を報告したその場で憲兵隊に拘束され、即座に投獄された。
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ムッソリーニの失脚により、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の解散を命令、ピエトロ・バドリオを首相に任命した。
イタリアにおいては、第二次世界大戦後もファシスト党の流れを汲む一定の勢力(イタリア社会運動)が存在した。現在のイタリアの極右政党国民同盟も、穏健化してはいるがファシスト党の影響を残している。国民同盟の穏健化は国民から評価され、1994年のフォルツァ・イタリアによるシルヴィオ・ベルルスコーニ政権誕生へとつながった。なお、国民同盟はかつて、ベニート・ムッソリーニの孫娘アレッサンドラ・ムッソリーニが所属していた。アレッサンドラは国民同盟を離党後、極右政党「行動の自由 (Libertà di Azione) 」(現在の名称は「社会行動 (Azione Sociale)」)を結成し、また欧州議会選挙に向け、他のネオ・ファシスト運動と連携して会派「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を組織して2004年には議席を獲得、彼女は欧州議会議員となっている。